- 2014-6-15
- 学び・教育
2014年4月16日に起きた
韓国旅客船沈没事故をテレビなどで見た日本の多くの国民が
その船長をひどい奴だと思った事でしょう。
そして、「韓国人はダメなんだな」というくくり方を
してしまう人もいたかも知れません。
しかし、実は
この船長よりも日本人ははるかに
恐ろしい国民性を持っているんです。
それをここで再認識してもらいましょう。
ただし、上の写真はその被害者側の1人、
赤塚不二夫さん です。
さて、時は逆上りますが、第二次世界大戦が
終わった1945年。
日本は負けてアメリカなどの言いなりみたいに
させられたようですよね?
広島、長崎に原爆を投下され、ポツダム宣言を
受け入れた、みたいに社会の時間に教わった気がします。
ところが、
教科書にもろくに載せずに葬られた悲惨な事態が
その直後に始まったのです。
実は日本の関東軍というのがその戦争より以前に中国に来て
農地を非常に安過ぎる値段で半ば没収しまくったりして
満州国という変な国をあやつっていました。
そこへは日本各地から開拓農業をしようと多くの世帯が
船で渡って既に住んでいました。
当時の日本は不況で食糧にも困っていたので、
広い満州国へ活路を求めようとして、国策でそこへの
移住を強く勧めたからです。
実際に広大な農地で耕作が行なわれ、
農産物がたくさん収穫されました。
でも、第二次世界大戦が始まると男手はほとんど徴兵され、
武器を持って出征してしまいました。
残された女子供や老人が田畑を耕したり
していたという事になります。
そして、1945年、終戦によってどうなったかです。
関東軍は武器を持った兵士なのに、
満州国に住んでいた日本住民達を
完全にほったらかして真っ先に
日本へ逃げ帰っちまったんです。
関東軍の自分の家族にはもっと以前に逃げろと指示しておいて。
するとどうなるか?
もう武器も反撃の心配もありませんから、元々頭に
きていた中国人達はカマやオノを振りかざし、同時に
ロシア軍も攻め込んできて日本人達を襲いまくったんです。
それでどうなったか?
当然すぐ殺されたり負傷させられたりした人もいました。
大慌てで日本人達は銃弾が飛び交う中を子供の手を引いたり
赤ちゃんをおんぶしたりしながら死に物狂いで
南の方へと逃げまくったって言うんです。
それも何日も何十日も逃げ続けたんです。
何しろ満州国って日本の何倍もある凄く広い所で、
日本人がいたのは鉄道から遠い場所でしたから。
だから駅まで昼夜歩いたり走ったりしたんです。
しかも負傷者も病人もです。
逃げる途中でも負傷したり病気にかかった人もいたのです。
で、途中に広い河があった場合。
ある人は流され、
ある親は
自分の赤ちゃんをわざと流し、
ある親は
泣きじゃくる子供を
木に縛り付けて
置き去りにしたまま
自分達だけで河を渡った・・・。
又、飢えと疲れと寒さでどうしようもなく困った場合、
ある親は
その場で子供を殺して
自分の負荷を減らして逃げ続けた・・・。
それどころじゃありません。
どうせ逃げられない、という結論を出した集落では
集落丸ごと自殺しようと
お互い同士を
石で殴り合って
殺し合った・・・。
このような決死の逃避行や惨劇の事実を映画化したりして
伝えていこうとする動きも近年多くなってきています。
当時を語れる生き証人が高齢化しています。
「今頃やっとかい?」と言われそうですが、
でもまだ間に合いますね。
有名人でも、赤塚不二夫さんの他にもプロフィールに
「満州生まれ」と書かれている人がいますが、
実は奇跡的に生きて日本へ帰れた人達なのです。
また、中国残留孤児というのは、その時に親と
生き別れた後に優しい中国人に助けられて
育てられた人なんです。
とにかく関東軍というのが本当にひどい奴らだったんですね。
そしてその子孫が今の日本人の中にうようよしている訳です。
って言うか
何人(なにじん)だろうが
人間なんて全員がそういう性質を
どこかに持ってるんですよね。
それで、自分が最悪の危機に陥った場合にパニツクになって、
ちゃんと冷静に自分も他人も全員助かる方法を
考えられる知能がプツンと切れてしまうようなんですね。
だから、自分がもし同じ境遇に置かれたら
誰でもそういうひどい人になる可能性はあるんじゃないかな。
そこを何とか
正常な人間に保っていられるように
訓練するカリキュラムとか教育とか
必要ですね。